原爆の思い出1
東京から帰広した時、自宅のあった広島市内には住まなかった。偶然だが、高校・大学時代の親友であった岡本君(広島鉄道局の貨物課長で、後に運輸事務次官、参議院議員)が広島市の西端の己斐町に官舎を持ちながら、広島市外で広島から五キロあまり離れた郊外の家を貸してくれた。
当時、自分の勤務先は日本石炭株式会社であった。事務所は原爆の落ちた中心地に近い大手町三丁目にあった。全くの偶然の幸運になったが、当時の日本石炭の支店長高柳氏(三井物産の石炭部出身)の発案で、その事務所では、空襲に備えた内規として空襲のあった翌朝は、一時間遅く出社してもよいという内規があった。全くの偶然だが、昭和二十年の八月五日の夜、空襲があった。原爆が落ちた昭和二十年八月六日の午前八時六分には自分は家族と共に郊外の自宅で出勤の準備をしていた。友人の友情と、会社の内規という二つの偶然のおかげで、自分も家族も原爆の被害を全く受けなかった。