我社が把握していない”三泰”の歴史 Part2
三泰産業株式会社の社名に入っている”三泰”に関して、Part1では日本側に残っていた資料をベースにAIで調査をかけましたが、今回はお取引先様の協力の下、中国側の資料から抜粋して翻訳をかけております。
大連—中国の「油坊の都」という記事で2018年1月に書かれたものから、”三泰”の記述がある部分のみの抜粋です。(注:三泰油坊が三泰産業株式会社の前身ではありません。あくまでも、”三泰”という社名の由来を調査した記事になります)
1908年に三井物産傘下の三泰油坊が設立されたことが大連製油業の勃興を象徴した。1908年だけで大連には14の製油所が新設され、1909年と1910年にはそれぞれ11社ずつ増加し、1913年には52社に達した。その数において、圧倒的多数は華人資本による油工場であった。日資系では主に三井物産傘下の油工場、1907年5月に日本の財閥・三井と中国の営口東永茂・西義順の3社が合弁で資本金30万円を投じて設立した大型搾油工業企業・三泰油坊、 1907年2月に設立された投資額300万円の日清油坊(当時「日清豆粕」と称した)などであった。華商の姜宜春が1906年3月に設立した公成玉油坊は投資額2万銀元、1908年11月に張本政が設立した政記油坊は投資額7.5万銀元で、このうち日清製油は大連最大の油坊工場であった。
大連の油搾り工場の台頭に伴い、搾油機械製造業も同時に発展し、最も影響力があったのが「周家炉」である。
「周家炉」は当初、蹄鉄製造・打ち付けを行う鍛冶屋に過ぎなかったが、1910年に周文富・周文貴兄弟が鍛冶屋を「順興鉄工場」と改名し、主に油搾り機械を生産するようになった。工場名は変わったものの、人々は依然として「周家炉」と呼ぶ習慣が続き、この名称は今日まで広く知られている。「周家炉」は油搾り機械の研究開発に専心し、近代的な機械で古式の木槌や石槌による搾油に代わり、人力式螺旋搾油機や機械動力式灯油搾油機などを次々と製造したが、搾油率は日資企業「三泰油坊」の搾油機に及ばなかった。ある時、「三泰油坊」の搾油機に故障が発生し、大連中を探しても修理できる者がおらず、やむなく「周家炉」に修理を依頼した。「周家炉」の技術者は修理しながら搾油機の構造を記録し、その後、冷気式搾油機(油圧式搾油機)を製造した。搾油効率が大幅に向上したため、多くの民族油坊経営者から歓迎され、次々と「周家炉」に搾油機を注文した。当時、大連、営口、瀋陽、開原、長春、四平、吉林、ハルビン、チチハル、青島、海州などの機械油坊は、多くが「周家炉」製の機械を注文した。これは民族油工場の競争力を強化しただけでなく、日本資本家の独占を打破した。「周家炉」はこれによりさらに発展を遂げた。1911年冬までに各種工作機械130台を購入し、1300人以上の労働者を雇用する近代的な機械化大工場となり、日資の「満鉄」沙河口工場、川崎造船所と三つ巴の構図を形成した。
